パナマ共和国

面積 約7万6000平方Km(日本は約38万平方Km)
人口 約267万人(日本は約1億3000万人)
人口密度 35人(日本は331人)
地理・気候・風土
-パナマ共和国と東京の降水量と平均気温-

 パナマは北米と南米の両大陸をむすぶ接点にあり,東西に細長く,北は大西洋,南は太平洋にはさまれた地峡国である。面積は日本の北海道よりやや小さく,その大部分が山岳地帯で,国の中央部には現在米国政府機関のパナマ運河委員会が管理運営しているパナマ運河がある。
 気候は高温多湿の熱帯性で,雨季と乾季に分かれる。パナマ人は雨季を冬,乾季を夏とよぶ。雨季には1日1〜2回のスコールがある。
国のなりたち
 この地域は16世紀はじめにスペイン領となり,1821年スペインの支配下をだっし,グラン・コロンビア共和国の1州となった。1903年,コロンビアはアメリカとパナマ運河建設に関する条約をむすんだが,コロンビア議会がこの批准を拒否したため,運河建設を死活問題とするパナマ側はアメリカに打診し,その支援を受けて独立,2週間後にあらためて運河条約をむすんだ。
 伝統的に保守的な一部地主ら特権階級が政治の実権を掌握してきたが,1952年就任したカンテラ大統領は社会改革を推進した。64年1月運河地帯で起こった暴動を契機にアメリカとの関係が悪化,同月対米断交したが,4月に復交し新運河条約交渉を開始した。同年10月就任したロブレス大統領も社会改革や運河交渉につとめたが,68年にはアリアス大統領にかわり,その就任10日後に国家警察隊によるクーデターが起こった。翌年臨時政府委員会が設置され,実権はトリホス国警隊司令官が握った。このクーデターを境にパナマは政治的に転換をみせはじめ,78年には民政に移行した。
政治・経済
 1972年新憲法下で全国代議員会議(国会)が成立し,さらに78年には第2回選挙が実施されてロヨ大統領が就任した。
 1903年にむすばれたパナマ運河条約は,運河と運河地帯(運河の両側8kmの帯状地帯)の独占使用・支配権をアメリカにあたえたもので,米・中南米間の不平等関係の象徴として,対米批判の一焦点になっていたが,両国間の長期にわたる交渉の末,79年10月新条約がむすばれ,アメリカは1999年末に運河の管理運営権をパナマに返還した。
 パナマは為替管理がなく,送金が自由なことなどから麻薬密売組織のマネーロンダリングの温床となってきた。こうしたなか1990年アメリカはパナマの最高実力者ノリエガ国防軍司令官を逮捕・連行し,マイアミ連邦地裁が禁固40年の判決を下した。この問題は駐留米軍の引きあげ要求ともからんで,パナマ国民の反米感情を高めている。
 パナマ経済は,運河,コロン自由貿易地帯の存在,国際金融市場としての性格等を背景として,商業,金融,観光の占める比重が非常に大きいが,その支柱は農水産業である。
社会と文化
 国民の人種構成は複雑だが,欧州人とインディオの混血メスティソがその根幹をなしている。文化はスペインの影響が強く,これに米国の影響が加味されている。国民の大半がカトリック教徒で,宗教上の祭りも多い。パナマ人は一般に陽気で開放的,あまり体面にこだわらないが,反面理屈っぽく,自己主張が強いようである。
日本との関係
 民族主義の高揚とともにアメリカからの自立をめざすパナマは,日本や欧州諸国への接近をはかっている。近年日本企業の進出も多くなっており,日米との3国共同の水平式新運河建設の計画も出ている。