ブラジルの独立(イピランガの丘)
 ペドロ・アルヴァレス・カブラルが1500年4月22日に発見したブラジルはその後,ポルトガルの植民地として金鉱の発見や奴隷をもとめて開拓がすすんだ。1808年,ポルトガル王室がナポレオンにおわれてブラジルに到着すると,ブラジルはポルトガルとの連合王国となる。ナポレオンの失脚後,ポルトガル本国へ帰ったジョアン・カルロス6世および新政府は,連合王国として対等になっていたブラジルの地位をポルトガルの一地方に格下げにし,ポルトガル中央政府の統制下におくこととした。この再植民地化路線によって決定的な不利をこうむる農場主たちが結束し独立運動は一気に高まった。ブラジルにとどまっていたジョアン6世の息子ドン・ペドロは,ブラジルの自治と特別議会をみとめるようポルトガル政府に要求した。これを否定され,帰国命令を出されたドン・ペドロは,これにはげしくいかり,1822年9月7日サンパウロ,イピランガの丘でもはや独立の道しかないことをさとり,剣を天空にかざし「独立か死か!」とさけび,ブラジル独立を宣言した。